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田舎のDQN

2013/07/04

田舎のDQN

西森さんが今「田舎」の話をしていて、そのTweetに触発されて少し思い当たることを書いてみた。

田舎と言っても、人によって想起するものが「違う」というのはあるけれど、おそらく大概にして人が「田舎」を想像するとき「都市(都会)」の中で「自分が生まれ育った地元では…」などと考えているのではないかと思われる。
だいたいでも、どれくらいだったら「いわゆる田舎」だと言えるのだろう。人口10万に満たない地方都市なら十分に「田舎」だと思うけど。
名古屋に住んでいたけど、トランスを始めたとき一時的に地元に引っ込んだ。田舎の地元でもさらにその奥地へと、さらに田舎へと私は職場を求め、小さな陶製工場に雇ってもらっていたことがあった。
しばらく働いているうちに私がオカマらしいこと、テレビに出て来るようなオカマとはちょっと違うタイプだということは日頃の触れ合いからなんとなく職場の人たちには理解されていった。
陶製工場はおにぎりを買うにも車で数分は走らないとコンビニにもスーパーにもたどり着けない山に囲まれた民家の集落の中にあった。
休憩時間には工場の裏に流れている小川から水を汲んできて、それを沸かしてお茶をいれた。美味しかった。のどかな場所だった。ちょうどアニメの「惡の華」の舞台で克明に描かれているような、寂れた、凡庸な風景がどこまでも続く土地だった。

写真

ある日、親方と女将さんから、近くに住める空き家があるから見に行かないかと誘われた。
私の体のことも心配してくれていた。オカマとして世間に晒されるよりも、田舎で人目を避けて暮らしていけばいい。ここでずっと働けばいい。私たちがかくまってあげるから。そう言われているような気がした。
空き家はちょっと豪華な家の敷地の中に「離れ」として建っているプレハブだった。窓から中を覗いて見て驚いた。台所のテーブルの上にはさっきまで人がそこにいたかのように飯椀や皿、湯のみ、調味料の瓶などが転がっていた。人が住んでいるように見えるのだけど、建物全体が死んでいる、時間が止まっているという薄気味悪さがあった。
親方にわけを聞くと、大家の親が住んでいたらしい。一年ほど前に死んだと言う。いや、死んだのはいいけど、なぜ中を誰も整理しないのです?台所で倒れて死んで、ずっとそのまま、放置ですか?葬式とかするでしょう?いくらなんでも茶碗ぐらい片付けるでしょう?なんでそのままなんですか?
私はうろたえて騒いでいたけど、女将さんは「田舎はそんなもんなのよ」と笑っていた。
この日を境に私は職場や、その土地のムードに抵抗感を感じるようになり、徐々に親方や女将さんを含め職場の人とも人間関係がギクシャクしていった。

発酵した粘土や、機械轆轤のオイルの匂い、煌々と輝く超高温の窯の火。ここにいると人生の嫌なことを全て忘れることが出来た。でも同時に自分が何処にも行けないのだと悟るようになった。私が人生を終えたら、きっと私がいた場所はあのプレハブの空き家のように、誰からの記憶からも排除された、空虚で白い時間が流れるのだろうなと思うと発狂しそうになった。

『みんなDQNでゾンビなのだから、自分もDQNでゾンビになった方がいい』。

しかし「田舎」とは何なんだろうと思う。
「田舎」に関わるイデオロギーに類似するものとしては「下町」や「南島」がある。
人が「田舎」というとき、実際には何について話しているのだろうか。「都会」が隔離された場所なのか、それとも「田舎」が閉じた場所なのか。

※「惡の華」(講談社)原作/押見修造、アニメーション制作/ZEXCS

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From → エッセイ

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