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松永千秋~性同一性障害に対する精神療法をめぐって

2011/09/05

医学書院「精神医学」8月号の「特集 性同一性障害(GID)」に精神科医、松永千秋さんの「性同一性障害に対する精神療法の課題とその問題点」が掲載されました。
http://www.igaku-shoin.co.jp/journalDetail.do?journal=33958
世界的なトランスジェンダー現象と脱病理化、LGBT運動を背景に国内ではジェンダークリニックへのニーズが多様化しています。
こうした昨今、松永さんは「性同一性の多様」という観点から性別二分法に依拠するGID医療のあり方に疑問を投げかけています。

魔法サロン公開インタビュー松永千秋(日野病院 精神科医)
~GIDになりたくない子~ 聞き手/水野ひばり (2010年7月31日 名古屋栄パルル)

【ジェンダーと「性同一性」】

ひばり  「ジェンダー」とは、一般的には「文化的な性」だとか「社会的な性」だとか、身体的な性別とは別に、人間が社会的に、あるいは文化的に作り出した「性」だと考えられているわけです。松永さんは、人の主体性に関わるような、人格的なもの、心的なものだと解釈されていましたね。

松永 心理と社会の関係を考えてみると、人間というのは生物学的な基盤、つまり脳とか身体とかあって、それで心理的な存在が成立すると一般的には考えるわけです。しかし、そうやって色々な人の心理的な個人が集合して社会が出来ると考えるよりも、社会というものがまずあって、むしろその社会的なものを土台として個々人の心理的な存在が決定してくるっていう考えがまずあるんです。その中で肉体的な個のあり方というのも形成されて来ると思うんです。

ひばり それはどうイメージすればいいんでしょうか。単に人格的なものだって言ってるわけじゃないんですよね。

松永 社会が個人の心理を形成する基礎になるということですね。根源的な意味において。「主体」をどう考えるかってことが大事だと思うのです。古代はね、例えばプラトンの国家論だとかあるじゃないですか。そういった時代は国家があって、つまり全体があって個がある。これがホッブスのリバイアサンなんかになると、個人々々がいて、社会契約によって国家が出来るという考え方になる。国家という全体があるから個人という要素があるという考え方から、要素である個人が集まって国家という全体的なものが出来る、社会が出来る、という考え方ですね。それをもう一回ひっくり返して、社会があって、主体的な個人が形成されるという方向にだいたい今の社会学、社会心理学はなって来てますよね。そうした考え方がまず前提にあるのです。

ひばり 「社会的な性」と聞くと、自分の存在とは全く別に、人の歴史の中で養われたもので、その決められたものにわたしたちは従っているのでしょうか。

松永 社会が規定しているものによって自分が成り立っているとも言えます。もちろん、人間の心は脳から生じていると考えれば、脳がその方向性の基礎を決めているとも言えます。でもその一方で、一人の人間として、主体が形成される根本的なところから、社会的なものの作用を受けているとも言えます。

ひばり 自分自身の存在が既に社会的なものだと考えていいのですよね。

松永 それが前提なんです。それが前提。ジェンダーとは「主体的な性」と言ってもいいんですけれども、でも社会によって「主体」が形成されているのです。ただ単に「社会的な性」と言ってしまうと、漠然としすぎていて、主体性や、心の発達として考察することは難しいでしょう。判ったような判らないような感じがしてしまう。「セックス」が「生物学的な性」で、「ジェンダー」が「社会的な性」だとしても、それを単純に「身体の性/心の性」として対比するのもおかしいんですよ。

ひばり 「心の性別」「身体の性別」と、ここでは「心」と「身体」を分けて考えていますよね。

松永 「身体の性別と心の性別が食い違っている」と言うのは分り易いですよね。情報コストがすごく少ない。つまり、ほんの少しのコストで情報が得られるわけです。しかし、その程度の理解では診療は出来ないです。一般の人が理解するための、マスコミにおける性同一性障害の説明としては「心と身体の性別の不一致」という言い方を否定するつもりはないです。ただ、それだけの理解では、わたしたち、つまり治療する側が性同一性障害の人、ないしは性別違和を抱える人に対応するには全然不十分でしょう。
「心の性別」と「身体の性別」が違う、という言い方には、性別というのは男性、女性、のふたつしかない、その組み合わせが食い違ってるという前提があるのです。
しかし、性同一性障害には心と身体の一致を求める人しかいないということならば、例えば「性別変更まで考えている人でないとGIDじゃない」という、「あなたはジェンダークリニックの対象じゃないから診れません」というね、「男女どっちかに決めてから来て下さい」っていう対応になるわけですよね。実際そういう対応になってると思うんですけども、それじゃジェンダーのあり方について悩める人たちへの対応は出来ないでしょう。もっと広い視野で診療が出来る体制が必要だと思います。

ひばり GID当事者のイメージがあって、そこに自分をはめるとなんとなく「GIDになった」みたいな。「GID的な自分」みたいな。そういうのは確かにありますよね。

松永 性同一性障害っていう言葉の意味を調べて、それを自分に当てはめていこうとするのは必ずしも良くないと思います。心と身体の不一致というモデルがしっくり来る人はいいですよね、しかし、無理やりはてはめている人にとってはそのモデル自体が窮屈すぎる。

ひばり 当事者の中にも差異があって、一般的なGIDのイメージから自分はズレてるんじゃないかとか、「本当のGID」と「偽物のGID」があるとか。最近は「本物/偽物」が細分化されてて「本物の女装子さん」と「偽物の女装子さん」がいる。「本物のホモ」がいて「偽物のホモ」がいるっていう。中核と周辺の図式ですね。「GIDとしては出来損ない」みたいな。当事者同士のラベリングや差別があるんです。ネタとか価値観の問題というより、GIDであることのアイデンティティがかかっていて、本気で差別してくる。悲惨なものを感じます。

松永 「身体の性別」といっても言っても、そんなに単純には考えられないと思うんです。例えば女性だったら胸があったりだとか、子宮があったりとか、身体の丸みを帯びているとか、女性という身体を持つことによって、社会的に女性という性別が割りふられて女性としての社会的な存在が規定され、役割付けられるわけです。性役割は、身体の性別があるが故に振り分けられたわけですね。単に身体だけの違和感でもないし、性役割だけの違和感でもない。そう言った意味でも心と身体の不一致という言い方はもっと掘り下げて考える必要があると思います。

【アイデンティティ】

松永 「ジェンダーアイデンティティ」という言葉を使い始めたのはマネーか、ロバート・ストーラーかってとこですよね。ストーラーの本を見ると「アイデンティティとは何か」っていうことを論じていますが、結局「すべての用例に適用できるような定義は見当たらない」というようなことを言ってるんです。「アイデンティティ」という言葉を広めたエリクソンの本を読んでも「アイデンティティという言葉は多義的だ」って書いてあるし、実際にエリクソン自身、「アイデンティティ」という言葉を多義的に使っています。

ひばり 以前「アイデンティティとは自分が自分であるという意識が持続していること」だと説明されてましたね。

松永 純粋な意味でのアイデンティティっていうのは、単なる「あり方」というか、存在様式ですね。連続性がある、ひとつの人格としてのあり方がエリクソンの言う意味での「統合されたアイデンティティ」のイメージですね。性同一性障害では「ジェンダーアイデンティティ」を日本語で「性同一性」と訳しているので、ややこしいでしょう。

ひばり 統合されないアイデンティティのあり方もひとつのあり方なわけですよね。丸くちゃんと収まってる人もいるけど、カオスな人もいるっていう。

松永 それを障害だとか言うのでなくて、そもそもそういう多様なものであるということです。例えば国家にしても、色んな国があるじゃないですか。統治された国家もあれば、全然統治されてない国家もありますよね。でも国家は国家じゃないですか。

ひばり わたしたちは「そういうのは近代的な国家じゃないよね」っていう教育を受けて来たんですよね。同様に、それじゃアイデンティティじゃないよねとか、それじゃGIDじゃないよねとか、男、あるいは女じゃないよねとか、そうした考え方は日常化していますね。ところで、性同一性障害における「ジェンダーアイデンティティ」って一体どういうものなんでしょう。十人当事者がいると十人が違うことを言いますね。

松永 「ジェンダーアイデンティティ」っていうのはその個々人の「主体的な性のあり方」だから。そのあり方ってたくさんあって当然ですね。だから十人いれば、十人違うんです。

ひばり 人と共有したくない、理解されたくないという意識も働いているのかもしれません。

松永 アイデンティティの危機は経験してるんだけれども、まだ積極的な関与をしていない状態を「モラトリアム」と言います。モラトリアムな状態では自分自身を規定されたくない。つまり、自分のアイデンティティを共有されたくないと考える場合があるわけです。「ジェンダーアイデンティティ」がずっとモラトリアムな状態で、4、50才になって直面化して治療を受けに来る人もいます。その場合に性同一性障害が否定的なのかというと、わたしはそう思わない。ただ何らかの要因によってモラトリアムな状態だったし、その人のあり方、存在様式がモラトリアムであり続けて来たんですね。

ひばり 「性同一性障害」の共通イメージが作れないということに関してはどう思いますか。

松永 「性同一性障害」という言葉があって、それをどう解釈するかによって、性同一性障害の概念が変わるっていうものではないと思うんです。「性同一性障害」という言葉が言い表そうとしている心理的、社会的な人のあり方があるんですね。その現象を「性同一性障害」という言葉によって表そうとしているわけです。だから「性同一性障害」という言葉をいくら調べても、それが指し示そうとしている様々なジェンダーの現象というのは判らないのです。それが「指し示そうとしているもの」への理解から「性同一性とは何か?」という問いに進むしかないわけです。

ひばり 「性同一性障害」と言ったときイメージされるのは、文字通り自分の性に対して「同一性」が持てるか持てないか。「障害」なんだから、自分の性別にシンクロ出来るか出来ないか。「出来ない人たちの障害」ですよっていう。

松永 性同一性障害だから「性同一性の障害」だっていう言い方は全然当てはまらないと思います。「性同一性」が障害されているわけではないということです。「性同一性」っていうのは「一人一人の性のあり方」なんだから、それが障害されているなんて大きなお世話ですよね。言われたくないですよね、そんなこと。自分自身の「性同一性」が社会において根源的に規定されている自分の自我同一性と上手く統合出来ないというところに苦悩があるのでしょう。「個々人におけるジェンダーのあり方」を「性同一性」と解釈し、広く捉えた方がいいと思うんです。

ひばり 「多様な性同一性という有り様」。そう考えると二元論をばっと相対化出来て見晴らしが良くなるわけですけど、自分の身体の違和感みたいなものをそれで解消することは出来るのでしょうか。自分にとって違和感とは「物のようなもの」。最後まで残るような気がします。核のような、ゴロっとした石ころのようなもの。これはもう心でもなんでもない。心の中に物体としか言いようがないものがゴロンと転がっています。これは「身体の問題」なのでしょうか、「心の問題」なのでしょうか。

松永 例えば、蛇を見たことがない人でも最初に見たときに怖いと思う。学習とか全く別にして、例えば猿だったら蛇や蜘蛛のような視覚刺激が恐怖行動に結びつく。頭の中で理解する前に身体が反応するっていうのは、人間でもあるんですよ。視覚的な情報が脳に入る、扁桃体に入る、扁桃体に入ってから前頭葉、前頭前野を通じて行動に繋がる部分と、前頭前野を通らずに扁桃体から直接行動に向かう経路があるんです。男性的な扱いに対して理屈抜きに違和感が起こるということも、もしかしたら神経生理的に説明できるようになるかもしれません。
あと、それ以外にも色んな可能性を考えなくちゃいけないと思うんです。ひとつの可能性として、ひばりさんだけじゃなく、色んな人がいて、その人の人格に深く関わる問題がジェンダーの問題のような装いでその人に自覚されているということもあり得るわけです。ジェンダーとは必ずしも関係ないような問題が、あたかもジェンダーの問題として、その人に自覚されていて、残り続けていく可能性もあると思います。それは幼児期のトラウマというようなものかもしれません。大人になっても脳になんらかの痕跡として残っているトラウマ的な体験が関係しているかもしれませんね。それがジェンダーの問題のように自覚されて心の中に存在しているかもしれない。そういうとこまで診ていく必要はあるかもしれません。
わたしたちとしては、「性同一性障害」というラベルの付いた入れ物に入れて持ってきたとしても、その中の中身まで見れるような診療はしていきたいですね。その人が作った入れ物の表面だけ見て判断しても判りませんからね。その人が最初はそうやって入れ物に入れて持ってきた中身を見ないと不十分ですよね。

【GIDになりたい子/なりたくない子】

ひばり 数年前ですが「自分はGIDかどうか解らない」という人がクリニックに訪れるようになった、という記事をネットで読んだことがあります。それからまた数年後、掲示板に「GIDになるにはどうしたらいいですか?」というスレッドが立ちました。

松永 色んな人がいると思いますけど、自分自身のジェンダーとしてのあり方が確定していなくて、GIDという言葉を見つけたと。実は自分としてはちょっと違う気がするけど、他に自分自身を規定する言葉がないので、なんとかGIDという言葉にしがみつきたいという気持ちはあるのかもしれないですよね。でもそんな必要はないってことは教えてあげた方がいいと思います。一般的なGIDに当てはまる人はそんな多くないかもしれないし、そうなる必要も全くありません。

ひばり 昔は精神科というと、性別を変えたい人が行くところでした。例えばタイで手術をするための診断書や紹介状を大枚で書いてもらいに行くとこだったんですね。GIDってのは要するに方便でした。それを大真面目に悩んだりするのは世間知らずの人のやることでした。ところがGIDという言葉が一般化するにしたがって何が変わってきたかというと、本当に悩んでいる子が来るようになった。
ただ、今のGID診療は愚直に悩む子から見ればまるでセンター試験のようなシステムに見える。合格しないと「真のGIDになれない」。だから「GIDになるはどうしたらいいですか?」という問いも生じるわけです。一方でGIDは自分にとって決して方便ではないけれど、かといってテストシステムの中で愚直に悩むほどバカじゃない、冷静にシステムを利用したいという子もいると思う。

松永 最初の頃はとにかくSRSしたい、戸籍変更したいという人が多かった。最近は自分のジェンダーについて相談したいという人が増えているんです。でも、よくよく聞いてみると、そういう人でもSRSまで考えてたりするんですけれどもね。ただ「訴え方が違ってきた」んですね。それは、わたしは良い事だと思うんです。SRSを考えていなければ精神科でも相手にしないような風潮は確かにあったと思うんです。それが変わってきたのは喜ばしいことだと思います。

ひばり 精神科に行ってどういうふうに先生と話せば「GIDらしく見えるのか」とか、そういう発想は今でも当事者にあると思います。

松永 その人のジェンダーに関する訴えが人格のどういう位置を占めるのか、ということだと思います。例えば、SRSで後悔したある人の話ですが、自分は女性にモテないし、男で行き詰まった。女性になれば人生うまくいくかもしれないと思ったと言うのです。SRSまで許可されたということは、きっと性同一性障害のようなことを訴えてたんでしょう。女性になるということが、その人の人格全体、人生や将来像とか、価値観や、対人関係、そういった全体像の中でどう位置づけられていたか。そういった見方が必要ですよね。

ひばり GIDになりたい人たちは、若い人に限らずだと思いますが、そこでGIDがどう理解されているのか。GID診療のシステムは、一致/不一致、身体/心だとか、従来の二元論的な考え方を前提に造られていますよね。その矛盾や限界がシステムを受容する側にも転移しているんじゃないか。そう思いますよ。

松永 GID医療そのものが、海外もそうかもしれないんですけれども、性別変更したい、SRS受けたいって人がいて、その人に対応するために出来ていたという面があるわけです。特に日本の場合はそれを合法的に行うためのシステムみたいなとこがありますよね。そのシステムが、逆にその性同一性障害という言葉で指し示されることを望む人たちのあり方までを規定してしまう。

ひばり そんな感じはするんですよ。そのシステムが逆に性同一性障害の「当事者」を生産しているんじゃないかとすら思うんですね。例えばFtMが増加するだとかいうこともそうです。「なりたい」なんて言う子は、たぶん純粋な人だと思うんですけれども、そういう人が造られてしまったのではないか。
あと、最近、わたしは「なりたくない」って言う子もいるんじゃないかって思います。GIDのイメージがネクラで、硬いから、だいだい病気の名前だし、だから診断が付いても、アイデンティティは「男の娘」だとか「自分はゲイだ」って言う人は前々からいました。そういうアイデンティティ表現は、わたしはよく判るんですけれども、実は本当の意味で「なりたくない」という人もいるんじゃないか。
性別違和を持ってるし、自分はたぶん性別を間違えて生まれて来てしまったという確信はあるけれど、生まれの性別に適合しつつ生きて行きたい、あえて性別を変えるということはしないという人たちです。身体を変えるんじゃなくて、生まれついた性別に適合する、性別を変えないようにするにはどうすればいいのか。というふうに悩む人も出て来るんじゃないのかと思います。

松永 女性で違和感はあるけれども、だからと言って男性ホルモン使ったりして、性別が中途半端になっていく、社会の当たり前から外れていくのは嫌だと言う人は見えました。あるいは男性でMtF的な心性を持った方なんですけれども、女性的な職場で働いていました。そのときはそれで良かったんですけれども、配属が変わったら男らしさを求められるようになった。それで辛くなって、自分は男扱いされるんだったら女性になった方がいいのでしょうかと言う人も。この方は、女性的なことが出来る職場が見つかったので、そこで悩みが解消されました。しかし、そういう人がもし仕事を変えられない状況だったら、自分の性別を変える方向へ行ってしまったかもしれません。

ひばり 今後は一致/不一致だとか、心と身体だとかでなく、「性同一性」というあり方そのものがそもそも多様にあるのだから、それについて何か問題を感じたら、ジェンダークリニックに通えるようになるといいですね。昔はそういうことでクリニックに通えなかった。

松永 ジェンダーについて何か悩みがあれば行けばいいと思います。「ジェンダー」クリニックなんだし。ただ医療の場がそれを障害ですって言うのは大きなお世話だと思う。例えば子供を持てない女性がいるとしても、だからといって必ずしも不妊症というレッテルを貼る必要はないですよね。もともと結婚したくない人もいるし、結婚したとしても子供産みたくない人だったら、たとえ子どもを作れない体だったとしても○○症なんて名前付けられる筋合いはないでしょう。失礼な話だと思います。でもそういう人がどうしても子供を産みたいという真摯な希望を持って受診した時には、医療側は「それは病気じゃないから」って跳ね返すんじゃなくて、今の医療技術を使って子供が産むためにはどうしたらいいか考えればいいと思うのです。その場合は医療で対応するわけだから、「不妊症」という名称、つまり病名を付けて生殖医療として保険を適用してやりましょうってことになるわけですよ。GIDも同じとは言えませんが、ちょっと似ていますよね。病気なのか病気じゃないのかというのは、実はそんなに大きな問題じゃないんです。

(了)

【編集後記】
この記事から、一年前の事ですが、当事者団体であるgid.jp(一般社団法人gid.jp日本性同一性障害と共に生きる人々の会)の人事における粛清劇では多くの関係者の対人関係が引き裂かれました。
各人の思想、信条を越えて問題化されるべき出来事であったと私は今でも考えています。
幸い、松永さんとはその後も交流が続いています。お手間を頂いたこと、ここに感謝します。水野ひばり

-追記-
『生まれ持った性のカタチにルールなんてない!!佐藤かよ(モデル/タレント)vs. 松永千秋(日野病院副院長/精神科医)』 (「暮らしと健康」10月号)

松永千秋 (まつながちあき)
精神科専門医、GID学会(性同一性障害学会)理事、日本精神神経学会「性同一性障害に関する委員会」委員、The World Professional Association for Transgender Health (WPATH)会員。
東京都出身。早稲田大学で物理学を学んだのち、医学の道に転進。浜松医科大学大学院を終了後、米国国立保健研究所(NIH)より奨学金を得て、NIHおよびジョンズ・ホプキンズ医科大学で研究生活を送る。帰国後は浜松医科大学精神科講師、病棟医長、外来医長等を経て、2003年4月より現職。専門領域は、性同一性障害、精神薬理学、神経画像(PET研究)など。
医療法人 正和会 日野病院 ジェンダークリニック
http://www.hino-hospital.jp/gender.html

※2012年9月、松永氏は日野病院を退職され、10月に世田谷区でクリニックを開院されました。
「ちあきクリニック」
chiakiclinic.littlestar.jp/

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